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「終わりなき日常」のなかで幼少を過ごしてきた世代に原風景は描けるか [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

10/23は「代官山ステキな街づくり協議会」主催の「まちづくりセミナー“まちづくりの哲学”」に行ってきました。
今回は「デタラメな世界の希望の在処」と題して秋田昌美氏による演奏と宮台真司氏による講演の二部構成。
私は二部から参加しました。

タイトルは「デタラメな世界の希望の在処」で、これは「まちづくり」のセミナーのはずだったのですが・・・。
議論は映画、沖縄、宗教、建築などなど様々なジャンルを行き来しながら深まっていきました。
個人的には「希望」も「まちづくり」も議論の中では影が薄かったような気もします。しかし、それはその分、様々な側面を検証し、外堀からじわじわ核心に近づけたということでもありますが。

このレポートでは講演会の内容、というよりは、それを通して考えた「終わりなき日常」のなかで生まれ育ってきた'80年代以降の人間にとって「原風景」を描くことができるのか、ということについて考えてみたいと思います。



今回の講演会のキーワードのひとつに「終わりなき日常」という言葉がありました。
「終わりなき日常」のなかでは余剰が許されず、合理性だけがつきつめられていきます。その結果、どこにいっても合理性だけをつきつめた施設(たとえばジャ●コ)が軒を連ねる「フラットな」世界ができあがりました。

こういった空間は、時間が経っても発酵しません。(だから『三丁目の夕日』のクライマックスにジャ●コは使えない。)合理性の名の下に更新され、モードが変わるだけです。(ジャ●コは建て直しても、新しくてきれいなジャ●コ以外のなにかにはなれない。東京●ワーにはなれない。)
なぜなら機能だけの施設は、それが空間へと発展することがないからです。(だから今でもジャ●コを舞台にした映画はできていない。)

また、別の講演会で、私はこんな話も聞きました。東京芸大で石川直樹氏のトークショーで、
「いろんな場所を旅していますが、原風景みたいなものってあるんですか?」
と問われたときのこと。
石川直樹氏ははっきりと
「ないです。」
と答えました。
「そりゃまあ、小さいときによく遊んだ公園に行ったら懐かしいぐらい思うかもしれないけど、東京生まれだから田んぼ見て懐かしいと思うこともないし。都会の風景って基本的にどこにでもあるものでしょ(…というニュアンスだったと思います。細部は違っているかも。)」

石川直樹氏は30代の前半。私(29歳)よりもちょっと年上だけど、「終わりなき日常のなかで幼少を過ごした世代」であることに変わりないその石川直樹氏の回答を聞いたときに、私は驚いたのと同時に「言われてみればそうかも」と納得もしました。つまり、「懐かしさを感じる風景がない」ことに対して驚いた一方で、「自分が『懐かしい』と思っていた風景が実は『風景』と呼ぶには小さすぎた」ことに納得もしたのです。



私が思う「懐かしい」風景は「それそのもの」でないとほとんど意味がないような差異しかありませんでした。
たとえば駅前のアーケードを見ると「懐かしい」と思いますが、それはそのアーケードでないといけないのです。他の駅のアーケードを見たからといって「懐かしい」とは思わないのです。なぜなら、アーケード自体はどこにでもあるものだからです。



「終わりなき日常のなかで幼少を過ごした世代」には、原風景を描くことはできないのでしょうか。
私はそうではないように思います。
「人が生きて住む」ということは、そこまで単純ではないように思います。
「機能」しかない場所にも人が長く住まうことで、「匂い」がついてくることがあるからです。

たとえば、先ほどから散々括弧書きで「ジャ●コで映画は撮れない」と書いてきましたが、実は最近そのジャ●コ的風景で撮られている映画も出てきています。「サイタマノラッパー」という映画です。
この映画では、高校生時代の片思いの相手と再会する場所としてジャ●コ…かどうかはわからないけれど駅前のショッピングセンターが使われています。これが例えば蝉の鳴く神社の境内で再会する…という設定だったらどうでしょう。それは全然埼玉っぽくないし、かえって薄っぺらくなっていたと思います。
埼玉という新興の都市で幼少から今まで過ごしてきた者にとってのノスタルジーは、神社よりもジャ●コのほうがよりふさわしいと思うのです。



しかし、やはりこういった場所への愛着は「風景」と呼ぶには小さく、個人的すぎるように思うのも否めません。
また誰かの手によってその風景が更新されてしまったとしても、差が小さすぎるあまり「文句を言うに言えない」状態になってしまうこともありうります。これは機能が主体になっている以上、仕方がないことなのかもしれません。

ただ、人が長年生きて住むことで機能に「匂い」がつくことがありうるなら、人の手でそれを増幅していくこともできるでしょう。たとえば、個人的だった思いを他の人と共有できるかたちにすることで。小さかった差異に味付けをして、ここにしかないものにしていくことで。
それによって「終わりなき日常」を生きる者にもより強固な「原風景」を描くことは可能になる、と、お二方のお話を通して、私は考えたのでした。

具体的な方法論については、また今後の研究課題、かな。



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