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路地を曲がれば三味線の音が響いていた円山町~しぶやコンシェルジュ第3回ガイドツアー [【掃き溜めに、一葉歌。】のアーカイブ]

6/25(土)、しぶやコンシェルジュ第3回ガイドツアーに参加してきました。
今回のツアーのテーマは「松濤の芸術性溢れる建築と円山町・神泉の三業地跡を巡る」。
高級住宅地・松濤とそれに隣接する円山町・神泉の花街。わずか半径200mの範囲内で、ここまで毛色の異なる風景が広がっているのも珍しいことなんだろうな。
どうして松濤・円山町はいまのようなかたちになったのか。
今回のツアーはその歴史を紐解く町歩きでもありました。

ツアーは午後12時30分、渋谷西武百貨店前から始まりました。
昨日のような猛暑を想像していたけど、雲が少し出始めて歩くにはいい天気・・・。
集合場所前にある銅像の前で立ち止まり、一番はじめの解説――ツアーの始まりです。

■1■西武百貨店B館~人魚と牧羊像~
あまりよく知られていないけれど西武のA館とB館には井の頭通りを挟んで二つの像が向かい合っています。
B館側にはラッパを吹く「牧羊」像。
A館側には結い上げた髪を押さえる「人魚」像。
「牧羊」像は国木田独歩を、「人魚」像は与謝野晶子をイメージして作られたとか。
…言われてみれば「人魚」像の髪はみだれています。

井の頭通りを抜けて、一同は■2■宇田川交番前へ。「宇田川」の地名からもわかるように、ここは昔、川だったのね。今は暗渠になっているけれど。
そして、Bunkamuraの裏へ…。ここまで来ると、もうだいぶ静か。

■3■東急本店角(Bunkamura、上野博士宅)
東急の裏から一本入った道沿いに、ハチ公の飼い主・上野博士の家があったそうです。
ここから渋谷駅までハチはお迎えに出てたのか…。結構距離あるし、ほんと賢い犬だったんだろうな。
そして、ここBunkamuraは昔、小学校があったところだそうで…。うーん、想像がつかない。

番地は松濤に変わり、町の雰囲気は繁華街から一変。大きな邸宅の並ぶ高級住宅街に。

■4■都知事公邸跡
そのなかでも一層大きく、高い塀に囲まれ一尺はあるライトが門に掲げられる、ものものしい雰囲気の邸宅が。
ここは、かつての都知事公邸跡。1900平米の広大な敷地に建てられた立派な邸宅ですが、現在は使われることもなく放置されてるそう。
「公邸」という建物の性質上、再利用も難しいのかしらね…。

■5■観世能楽堂、■6■戸栗美術館とアートなエリアを歩きます。松濤は周りの住居に溶け込むようにアートスポットがあるのがいいなぁ…。
CHEZ MATSUOの前で「行ったことある?」なんてやりながら進みます。

DSC_0043.JPG

蔦とゆるく奥へと曲がっていく玄関が実に素敵…。
「いくらぐらいで入れるんですか?」
しぶコン代表の玉井さんが「適当なこと言っちゃいけない」とパンフレットをもらってきてくれましたが…パンフにも値段は書かれておりませんでした…。行くときは、諭吉をいっぱい用意して、覚悟して。。

■7■松濤中学校前で、松濤の多くの土地が鍋島氏所有の庭だったことをお勉強。この中学校の土地も、かつては鍋島氏のものでした。
元々お庭として使われてた土地だったから鍋島松濤公園も、庭園っぽい造りなのね。

■8■ギャラリーTOM
鍋島松濤公園を山手通り方面へと歩を進めると、ぎざぎざの屋根が特徴的なギャラリーTOMがお目見え。
ここは盲人が彫刻に触って鑑賞できる場所として設立されたギャラリー。
設立者の長男が視覚に障がいがあり、その長男の
「ぼくたち盲人もロダンを見る権利がある」
という言葉からこのギャラリーが作られたそうです。

ぎざぎざの屋根は、そこから光が射し込むようになっており、時間帯によっては光と影によるストライプ模様が館内を覆うそう。
私も訪れてみたいなぁ。眼を閉じて、作品と向き合ってみたい。


■9■鍋島松濤公園でちょっと休憩しながら、松濤がかつてはお茶の町だったことを聞きました。
この辺も全部お茶畑だったそうな。
宇田川が童謡の「春の小川」の舞台だったことからもわかるように、渋谷はかつて豊かな水の恩恵を受けていた土地だったのね。

■10■松濤美術館の曲線美を堪能しながら、■11■神泉駅へ至る小径へ。
この辺りは本当に「谷」だったことを思わせる場所が多かったです。左手が崖のようにそびえ立ち、玄関に至るのに急な階段を上らなければならない住宅も…。

そんな谷の部分をかいくぐって京王線・神泉の駅に到着。
先ほどの谷の延長上、神泉駅前の線路には水路の面影が。

DSC_0048.JPG

トンネル前の、線路を横断してかけられているこの蓋の下。
これが水路になっていて、下を水が流れているんだって。


神泉はその名の通り、昔は弘法湯という湯屋があって湯治に使われる場所だったそうです。
弘法湯がかつて門を構えていた場所は今はマンションになっていましたが、その入り口には湯屋があったことを示す石碑が今も残っています。
・・・この石碑に鋭いいい字が彫られていると思ったら、有名な石屋さんの作ったものだそうで。

坂道を上っていくと、ツアー最後の目的地■12■三業地界隈が。

そもそも「三業地」とはなんなのか。
「三業」とは「芸者置屋」、「料亭」、「待合」のことを指し、これらの業種の営業が許された特別な区域を「三業地」といったそうです。
円山町がかつて三業地であった名残は意外な部分に残されていました。

DSC_0050.JPG

この階段、ずいぶん一段一段が低いです。
それもそのはず、これを上った先は芸者置屋が密集していた場所で、芸者さんたちは階段を下りた先にある料亭街との間をこの階段を使って毎日行き来していたのです。
着物を着た芸者さんの足裁きがいいように、こんなに一段が低い階段が作られたのです。

今ではすっかりホテル街となってしまった円山町ですが、今でも三業地時代から料亭を続けているお店も何軒か残っています。そのときの記憶を体現するように、ホテルのネオンの間にひっそりとお地蔵様が佇んでいました。

三業地の衰退は、継承者不足による芸者の質の低下がきっかけだったようです。
高度成長期、東京に急激に流れ込んだ人口を支えるだけの芸者がおらず、にわか芸者を客前に出さざるを得なくなりました。客の不満は募り、だんだんと客足は遠のいていきました。
都庁舎の移転でその衰退の速度は爆発的なものとなりました。路地に三味線の稽古をする音が響いていた円山町が現在のホテル街の姿となるまでそう時間はかからなかったそうです。

「目をつむれば、今もどこに何の料亭があったか思い出せるのに」

そう語った、地元からのツアー参加者の方の言葉が心に残りました。
時代の流れに翻弄された円山町。
その変遷も含めて知っている人がどれだけいるでしょうか。
円山町だけではありません。
かつてお茶処だった松濤だってそうです。

一度失われてしまった風景は二度と戻りません。
「普通」の風景なんてどこにもないのです。
今ある風景は、私たちが記憶して、後生へと伝えていかなければならないのだ、と感じたツアーでした。


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コメント 4

いのうえ

すごい!全部おぼえてたんですか??

あ、おじゃましてます。八王子の井上です(o ´ω`o)♪
by いのうえ (2011-06-29 19:24) 

kaen

>いのうえさん

細かい部分は、後から調べ直してるものもあります。
1時間半たっぷりのツアーだと、印象に残ったことだけ拾っても結構な量になりますね~(´▽`;)ゞ

全然本編と関係ないですけど、いのうえさんの多い会でしたね。。
by kaen (2011-06-30 12:31) 

マツシタ

「過去の積み重ねの上に今があり、それを最大限尊重した上で、これからの街をつくらなければならない。」
ドイツの街づくりの基本哲学だと教わりましたが、日本でもまさにこの姿勢が必要ですよね。
by マツシタ (2011-07-04 09:41) 

kaen

>マツシタさん

「積み重ね」という部分、忘れられてしまってる部分ありますね。

最近、駅舎などもきれいになっているところが多いですが、ちょっと画一的でどの駅に降りても同じ印象だな、と感じてしまうことがあります。
今はそれでもきれいで嬉しくていいかもしれませんが、30年、40年経ったときに何が残るのかな…と。
その街の味とか匂いとか、うまいこと吸収できる土台のある街づくりであってほしいです。


by kaen (2011-07-04 23:18) 

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